「アカ族の村では、村民全員がキリスト教なんですか?」
これも、ゲストの方からよく聞かれる質問です。
じつは、キリスト教に改宗したのは、「全員」ではありません。
今回は、アカ族村の中で、キリスト教会に入信した人と、入信しなかった人との「違い」について、お話ししていきます。
たとえば、
うちの村を例にとると、キリスト教に改宗しなかった家は「2世帯」ありました。
それは、「商店主の家」と、「村長の家」です。
この2つの家は、今もタイ仏教に所属しています。
では、「商店主」と「村長」、この2つの共通点は何でしょうか。
それは、「経済的に自立していること」です。
経済的に自立していた家は、布教団体が村へやってきた時も、キリスト教に魅力を感じることなく、
従来のタイ仏教のまま、改宗はしなかった、ということです。
では、改宗するか否かと、経済的自立がなぜ関係あるかというと、
これはとりもなおさず、布教団体は、村での活動初期のころ、
「モノで釣っていたから」です。
つまり、
という口上が、そもそもの布教方法だった、ということです。
そのため、当時貧しかった人は、
モノに釣られるがままに、キリスト教に入信しました。
いっぽう、経済的に自立して、すでに現金収入があった人たちにとっては、
「別に、服とかいらねえし…」
ってなもんですから、改宗もしなかった、ということです。
「お金があった人は、
布教されても入信しなった」
これって、かなり象徴的だと思いませんか?
要は、信仰や教義とか、魂の救済とか、そういうのは一切関係なくて、
ただただ、「教会に属していたら寄付がもらえる」というのが、入信の直接の動機だった…
ということです。
逆に言えば、モノとカネに釣られての入信ですから、
時代が進んで、経済的に発展して、余裕が出てくるようになれば、教会のこともだんだん「どうでもよく」なってきます。
すでに欧米諸国で、教会離れが深刻化しているのと同じように。
なので、ここからは私の予想ですが……
あと10年も経って、山の人たちももっと豊かになれば、
そのころにはおそらく、タイの山でも、「教会離れ」が始まるだろうと思います。
なぜなら、経済的な基盤があれば、寄付を期待しなくてもよくなるからです。
また、お金に余裕ができて、インターネットなどの情報が入るようになれば、
頭もどんどん良くなっていきますから、権威に対して簡単に「騙され」なくなります。
すでに、アカ族の若い層の中には、
教会に疑問を感じている人も現れ始めています。
うちの親は、そんなもののために、
伝統文化を捨てちゃったの!?」
ってなもんです。
これは、例えて言えば、
というのとよく似ています。
今回の内容をまとめると…
当時の住民たちが未開で貧しかったからであって、
洗練されてくれば、矛盾に気づき始めるだろう
ということです。
【備考】
ただし、私はキリスト教そのものを否定しているわけではありません。
タイの山間部においては、教義や内容よりも、「寄付」に釣られて入信した人が相当数いるので、
教義や内容なんて、はっきり言ってあんまり関係ないのです。