近年、タイ北部のアカ族をはじめとする少数民族の家庭では、
「塀と門扉」を設置するのが流行しています。
集落によっては、住民の大多数が塀と門扉を取り付けていたりします。
こうなると、村を見渡しても、
目に入るのはコンクリブロックの塀と鉄製の門扉ばかり。
何とも、ワンパターンです。
昔ながらの竹と土の懐かしい景観は、すっかり変わってしまいました。
そもそも昔は、集落の中はすべて親戚、みたいなところが多く、
広い敷地に兄弟たちが竹の家を建てて、暮らしていました。
かつては「ヨソの家」という感覚も極めて薄く、
塀や門扉という概念は、ほとんどありませんでした。
アカ族に限らず、タイの田舎の農村も、かつてはどこもでもそんな感じだったと思います。
しかし、ここ十数年の間に、アカ族の村にも都市部の価値観がどっと流入しました。
家と家をキチッと境界線で分け、境界線には「塀」が建てられるようになりました。
しかし、元々が山あいの集落で、そんなに広い土地で暮らしているわけではありませんから、
家屋ごとに塀で囲ってしまうと、非常に窮屈になってしまいます。
では、窮屈になると分かっていながら、どうしてアカ族の人たちの間で、塀と門扉がここまで普及したのでしょうか。
それには、大きく2つの理由が挙げられます。
それは、「防犯」と「中流志向」です。
まず1つめのメリット、「防犯」について考えてみましょう。
防犯とはつまり、ドロボウよけということですが、
もっと具体的に言うと、「ジャンキー」のドロボウよけです。
現代も、山間部ではヤーバー(覚せい剤の一種)に手を出して常習者になってしまう者が多く、
彼らは年がら年中、ヤーバーの購入のための小銭を探し求めて、徘徊しています。
もちろん、ヤーバー費用を労働で稼ぐ真面目(?)な常習者もいるのですが、
他人の家から盗もうという不届き者も後を絶ちません。
そういうヤーバー常習者の侵入を防ぐために、「家庭には塀と門扉が必要なのだ」という理屈です。
この理屈は、たしかに、一面では正しそうです。
でも、実は、防犯という観点で言うと、竹の家をコンクリの家に建て替えた時点で、すでにかなりの防犯になっています。コンクリの家の玄関や部屋の扉に鍵を付ければ、田舎のヤーバー常習者なんて十分撃退できます。
それに、本気で盗もうと考えているドロボウにとっては、塀があろうがなかろうが関係ないので、正直、塀と門扉による防犯上のメリットがどれほどあるのかは、疑問です。
それでもアカ族の人たちが塀と門扉にこだわるのは、2つの理由、中流志向です。
中流志向とは、「自分は中流階級であると思込みたい」という志向です。
つまり、
という行動理念です。
かつて塀と門扉は、村長や牧師など、村の一部の特権階級だけが持つ、特別なものでした。
しかし、今では家の働き手が出稼ぎに行って、お金を送ってもらいさえすれば、
誰でも、塀や門扉を家に取り付けることができるようになりました。
塀と門扉は、いわば、中流のステータスの1つなのです。
こうして塀と門扉のある家が、アカ族の集落で急速に普及していきます。
「何を買うか」ではなく、「みなと同じかどうか」の一点が最も重要なのです。
かつて、日本のバブル期を生きた読者の皆さんであれば、アカ族のこうした心境はよく理解できると思います。
今のアカ族は、タイの経済発展の波に流されるままに、購買と消費に駆り立てられています。
アカ族の集落に所狭しと建設される塀と門扉付きのコンクリ住宅がそのことを如実に物語ってくれます。
もちろん、
家に塀と門扉を付けることで、防犯やプライバシー上のメリットはあるでしょう。
しかし、デメリットも多々あります。
例えば、
高い塀があると日光が遮断され、野菜などを植えるスペースも減ってしまいますし、家の建築費用がかさんでしまいます。
何より、ブロック塀ばかりが林立していると、村全体の「景観」が非常に悪くなります。
最大のデメリットの1つは、
「他人の家にフラっと遊びに行きにくくなったこと」です。
昔は、どこに家にも、寝食のための家屋とは別に、休憩所用の庵があり、誰でも自由にそこへ座って、談笑することができました。
しかし、塀と門扉があると、「まず家主に門扉を開けてもらう」というプロセスが必要になるため、
これまでのように気軽に他人の家の敷地に入って、庵で談笑できなくなります。
こうして人と人との距離が広がり、近代的な個人主義はますます助長されていきます。
このように考えると、塀と門扉なんて、少なくともタイの農村部においては、
「デメリットの方が多いんじゃないの?」って思いませんか。