ボランティアで、
子供たちに何か技術や知識を教えるときに、
「何を教えるのか」というのは、
かなり大きな問題です。
ここをおろそかにしてしまうと、
「結局のところ、満足できたのはボランティアした人本人だけで、子供たちは、何も嬉しくない」
という、悲しい状況になってしまいます。
でも、実際に、こうした間違いを犯してしまっている人は、とても多いんです。
そこで今回は、数あるボランティアの中で、
「語学を教えるボランティア」
というものにスポットを当てて、ご紹介していきたいと思います。
ボランティアで何を教えるのか
「ボランティアで何を教えるのか」ということについては、次の2つの基準があります。それは…
1.その外国人は、何を教えることができるのか
2.子供たちは、何を教わりたいと思っているのか
この2つです。そして、この2つをそれぞれ掛け合わせると、次の4つのパターンになります。
1.外国人が教えることができて、子供たちも教わりたいと思っている
2.外国人は教えることができるが、子供たちは教わりたいとは思っていない
3.外国人は教えることができないが、子供たちは教わりたいと思っている
4.外国人は教えることはできず、子供たちも教わりたいとは思っていない
このうち、(4)は、「教えられないし教わりたくない」、つまり需要と供給が全くゼロということですから、
必然的に、(4)は選択肢からは除外されます。
そして、
(1)の「私も教えられるし、彼らも教わりたい」というのが、最も理想である、
ということは、ひと目見ればわかりますよね。
「本当に求められているものは何か」を考える
ですので、ものを教えるボランティアで、最も理想なのは、
「あなたもそれを教えられるだけの知識があって、なおかつ、子供たちもそれを求めている」
という状態です。
具体的に、タイの子供たちが求めている知識というのは…
・学校の英語、算数の勉強
・手に職がつく技術を習得(バイクや機械の修理、建築、裁縫、料理など)
…などです。
要は、あなたがこれらの知識を教えられるなら、それで全く問題はありません。
子供にメリットのあることを教える
例えば、あなたが、日本でプチトマトを栽培していて、プチトマトの作り方を教えることができるとします。
プチトマトというのは、近年タイでも人気が出てきている野菜ですから、
子供たちがプチトマトの栽培方法をマスターできれば、確実に、手に職となり、彼らの貴重な収入源になります。
そのため、こういうボランティアは、どんどんやるべきです。
問題なのは、前項でご紹介した、(2)と(3)の選択肢です。
2.教えられるけど、求められていない
3.教えられないけど、求められている
つまり、
ボランティアをする側とされる側との需要と供給が釣り合っていない、
というケースです。
まずは、(2)の、「外国人は教えられるが、子供たちは求めていない」のケースから見てみましょう。
これの典型例は何か…
今回の記事のタイトルを見れば、もうお分かりですよね。
そう、「日本語」です。
「タイの少数民族の子供たちに日本語教える」
というボランティアは、
需要と供給とが全く釣り合っていないんです。
つまり、こういうことです。
日本人のボランティアの人は、
「自分は日本人だから、日本語なら、特別訓練を受けなくても、すぐにそれなりに教えることができる。だったら、とりあえず子供たちに日本語教えてみよう」
と、考えます。
一方で、子供たちは、どのように考えるのか。
「日本語なんて覚えて、何になるの? それは、日系企業の就職に有利だっていうのは聞いたことあるけど、そんなの、僕たちにとっては別世界の話。」
「そもそも、高校へ行けるかどうかもわからないのに、大学卒業後に必要になる日本語を教えてもらっても、いまいち現実感がないというか、なんで?って感じ。」
…と、実際のところ、
日本語を教えられた少数民族の子供たちのほとんどは、このように考えています。
これは、アジアの発展途上国で日本語を教えた経験のある人なら、
おそらく理解していただけるのではないかと思います。
子供は日本語を習得するメリットを感じられない
つまり、今のタイの子供たちにとって、「日本語の知識」というのは、まるで雲の上のことのような、
生活にほとんど直結しない知識なんです。
そんなものを教えられたところで、「よし、一生懸命勉強しよう!」とは、なかなかなりませんよね。
もしも逆の立場なら…?
例えて言えば…
あなたが貧困世帯の子供だったとして、いきなり外国人が家へやって来て、英語以外の外国語を教え始めるようなものです。
もしもこれを突然されたら、
「えっ、なんで?」と、思いませんか?
もちろん、子どもが本当に真剣に勉強して、日本人並みに漢字を覚えて、日本人並みにペラペラにしゃべれるようになるなら…
バンコクの日系企業でも、日本語話者は引く手あまたですから、それは素晴らしいことだと思います。
でも、そんなのは、本当にレアケースなんです。
日本語が活かせるのは、かなり先の将来
先ほどもお話ししたように、
タイで、子供たちが、日本語の知識を駆使して何かができるのは、大学を卒業してから、「20歳以降」の話です。
そもそも、「中学を卒業できるかどうか」すら、危うい子供たちも、いっぱいいます。
それなのに、まだ10歳前後の少数民族の子どもが、日本語を覚えたところで、
彼らはそれを使う機会もなく、ましてや、それを使って仕事をするなんて、
「あり得ない」
ということなんです。
それを、ボランティアをする側が、ただ「教えることができるから」という理由だけで、時間とお金を使って、子供たちに日本語教えることに、
果たして意味があるのかどうか、
ということは、もっと見直されてもいいと思います。
ボランティアのモデルケース、Yさん
私がこの話をする時、いつも引き合いに出す、1つのエピソードがあります。
それは、タイ北部、チェンライの田舎町で、子供たちに英語と算数を教えている日本人のお話です。
彼の名は、Yさん。
私が、「理想的なボランティア」だと考えている、いわばモデルケースのような人です。
少し話が長くなってきましたので、今回は一旦ここまでにして、
Yさんのエピソードについては、また次回、ご紹介していきます。