タイに「パンティップ」というWebサイトがあります。
これは、タイ版のYahoo!知恵袋のようなサイトで、
質問者が板を立てると、それを見たユーザーが匿名で応答していく、というシステムです。
このサイトには、私もたまに目を通していて、「現代タイ人の若者の考え方」を知る上で非常に参考にしています。
今回、私が興味を持ったのが、こちらの投稿。
タイ語質問サイト『パンティップ』
เราอายุ31กำลังจะ32 ไม่มีบ้าน ปัจจุบันเช่าอพาทเม้น1ห้องนอนอยู่ ไม่มีรถ มีแต่จักรยาน ถีบไปทำงานไปซื้อของ……
https://pantip.com/topic/38488388
内容を要約すると、
私は何物でもない、自信がない。
どうすればいいのか。」
というようなことが書いてあります。
日本ではまあ、比較的よくある質問ですよね。
なので、
もしも、私がこの投稿を、日本のYahoo!知恵袋で見かけていたなら、特に気にも留めていなかっただろうと思います。
しかし、
「現在では、タイ人の若者も、日本の若者と同じように『鬱っぽい』ことを考えている」
という点に、私は非常に関心を持ちました。
これを感じ始めるのは、鬱(うつ)の前段階です。
という理想
「しかし、自分は何者でもない」
という現実
この自意識が芽生えた時、人は鬱になります。
でも、ぶっちゃけて言うと…
伝統社会に乗ってさえいれば、別に、「何者か」である必要なんてないんですよね。
「自分は何者かでなければならない」
これは、近代以降、突如として現れた価値観です。
近代以前は、「自分は何者か」なんて、誰も考えていませんでした。
たとえば、近代以前なら、農家の子は農家、鍛冶屋の子は鍛冶屋です。
そこには、「自分は何者か」が挟まる余地はありません。
「親の仕事、またはそれに関連したことをして食べていく」
というのが、唯一の価値観だった時代です。
実際、つい21世紀の初めごろまで、タイもそんな感じでした。
でも、これって、実はすごく安心なんですよね。
親の職能さえきちんと受け継いでいれば、最低限食べていけるのですから、
無理に衣食住を探して、もがき苦しむ必要がありません。
しかし、近代以降、タイも「職業選択の自由」という名のもとに、人は、親の職能を継がなくてもよくなりました。
「継がなくても良い」のではなく、実際は、「代々続いた貴重な職能を受け継ぐチャンスを失った」というべきなのですが、
こうして、タイも、戦後の日本と同じように、
「世代間の職能が断絶した社会」になっていったわけです。
自由という美辞麗句は、時として、人をより不自由にします。
こうなると、すべての人は、
二十歳やそこらで裸で社会に放り出され、いやでも何者かにならねばなりません。
そして、
でも、何者かになるのって、やっぱり、「椅子取りゲーム」的な要素が強い。
努力や才能があればまだしも、そういうのがないと、椅子取りゲームからは外れてしまいます。
上記の、『パンティップ』で質問した31歳のタイ人の若者のように。
少なくとも、上記の若者は、
「アパート暮らしなんてしないで、たとえニートと呼ばれようとも、ずっと親の実家にいる」
という選択肢もあったはずだと思います。
タイの伝統的な家庭であれば、出稼ぎなんて行かなくっても、コメと野菜とフルーツは、いくらでも手に入るのですから。
でも、現代は、タイもそれをするのが難しいご時世になっています。
結果的に、椅子取りゲームから外れた若者は、鬱で苦しんでしまうことになります。
だったら、昔みたいに、
と、思うわけです。
そして、かく言う私は、現在、タイの山奥の村で、
「若者が誰も鬱にならずに、全員が確固たる安心感を築いて、生きていける方法はないだろうか」
と、日々試行錯誤を続けています。