「長者の一灯より貧女の一灯」の意味とは?~お布施や寄付のあり方を考える

「長者の一灯より貧女の一灯」ということわざをご存知でしょうか。

寄付や贈り物など、他人に何かを施す時の「心構え」として、よく引用される言葉で、

出典は、仏教説話です。

今回は、この「貧女の一灯」のお話を踏まえつつ、

仏教本来の「お布施」のあり方について、お話ししていきたいと思います。

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『阿闍世王受決経』という経典の中に、次のような故事があります。

マガダ国の王、阿闍世王が、お釈迦様を招待したとき、

王は、宮殿から祇園精舎までの道を、たくさんの豪華な灯火でともしました。

これは当時、「灯り火を仏に布施する」という慣習があったためです。

それを見た貧しい女性(貧女)が、

「自分も、お釈迦様に灯火を寄進したい」

との思いから、必死の思いでお金を工面し、

ようやく、一本の灯火をともすことができ、お釈迦様に、寄進しました。

そして、その翌朝…

阿闍世王がともした、豪華な灯火は、すべて、消えてしまっていました。

しかし、貧女がともした一本の灯火だけは、いつまでも消えることなく、

あたりを煌々と照らし続けました。

そして貧女は、この「一本の灯火」に功徳により、菩薩へと生まれ変わることができました。

めでたしめでたし

…以上が、『貧女の一灯』の仏教説話です。

この説話を指して、

「長者の一灯より貧女の一灯」

と言ったり、あるいは単に、

「貧女の一灯」と言ったりします。

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この説話から、私たちが学ぶべきことは…

「持っている人が、余っているものを、いくら寄付してみたところで、

なけなしのものを贈る人には、かなわない」

…ということです。

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現在のタイのニュースを見ていると、

お布施の「金額」ばかりがクローズアップされます。

ニュースの内容は、

ビジネスで成功した人や、外国人と結婚して財産を得た人など、

「お金をたくさん持っている人が、その一部をお寺にお布施した」

というニュースばかりです。

また、お寺に限らず、タイではとにかく、「金額」が重要視されるところがあります。

つい先日報道されたニュースでは、ネットビジネスで成功した若い女性が、

「恋人に10万バーツの札束で作った、お札の花束をプレゼントした」

なんていう記事が出ていて、注目を集めたのですが、

でも、こんなのは、はっきり言って「ただのお遊び」です。

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誰かに何かを与えるとき、その「金額」や「量」は、実は、あんまり功徳とは関係がありません。

もしも、「金額」や「量」が重要であるのなら…

お布施をするのは金持ちだけの特権で、貧乏人にはお布施ができない、ってことになってしまいます。

でも、そんなことはあり得ないですよね。

お釈迦様の説いた「施し」の修行は、本来、すべての人が等しく行うことのできる、修行法です。

多く持っているか、いないか、ということは、お布施をする上で何の意味もなく、時に足かせにすらなります。

「お布施」の修行においては…

それを与える側にとって、「どれくらい切実か」ということが、最も重要になります。

このことを譬えたのが、まさしく「貧女の一灯」の故事です。

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例えば、あなたが、

「お腹がすいていて、たったひとつのアンパンを、握り締めている」

というようなシチュエーションだったとします。

このとき、目の前に現れた、お腹を空かせた子供に対して、そのアンパンを、半分、または全部、あげられるかどうか、

ということです。

あるいは、その時に持っているなけなしのお金を、必要としている人のために、パッと渡すことができるか、ということです。

これができる人には功徳があり、

できない人は、いくら形だけのお布施をしたところで、功徳はない…

というのが、「貧女の一灯」の仏教説話から、私たちが学ぶべきことです。

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現代風に、分かりやすく言えば…

『これを渡してしまうとちょっと困る、でも、ギリギリ何とかなる』

という程度の金額や物を、必要としている他者に対し、

下心なく、パッと与えるのが、最も効果がある」

ってことになります。

ですので、「金額の多い少ない」や、「現世的なご利益」だけを問題にしているうちは…

お釈迦様の教えからは、程遠い…ってことなんです。