アカ族には、日本人と同様、「恥」の意識があります。
そのため、アカ族の親は、子供が小さい頃から、子供に対し、
「そんなことをして、恥ずかしくないの?」
という叱り方をします。
これは、日本とアカ族のよく似ている点の1つです。
また、子供のしつけ以外に、大人同士の会話であっても、「恥」にまつわるフレーズは、会話の端々で見ることができます。
典型的な場面としては、例えば、
「あそこの奥さんは、夫と子供を捨てて、金持ちの中国人の愛人になったらしいわよ」
「まぁ、恥ずかしくないのかしら!」
「あそこの旦那さんは、役所からかなりの金額をピンハネしているらしいわよ」
「まぁ、恥知らずね!」
……といった具合です。
「恥知らず」という言葉は、アカ族においては最上級のけなし言葉で、
「恥を知らない人」というのは、つまり人としての道に反している、というのが、伝統的なアカ族の考え方です。
恥の感覚とは、言い方を変えれば、「内発的な規律」です。
つまり、たとえ誰も見ていなくても、誰からも強制されなくても、
「自分自身が恥ずかしいと感じるからやる・やらない」
という、内的な理由によって、行動を律しているわけです。
アカ族のこうした「恥」の意識は、タイ族など周辺の諸民族よりも、日本人に近い道徳観です。
タイではむしろ、日本人の感覚からすると「恥知らず」としか思えないような低劣な行為をやってしまう人が大勢います。
では、そんなタイ国内にあって、どうしてアカ族の間では、「恥の文化」が継承されているのでしょうか。
アカ族の恥の感覚は、「先祖との関わり」と密接な関係があります。
それが、「先祖の霊がいつも見ている」というアカ族の格言です。
先祖の霊は、どこか遠い所へ行ってしまったのではなく、いつも私たちの近くにいて、私たちの一挙手一投足を見つめています。
そして、私たちが死んだ後は、先祖たちのいるところへ赴きます。
こうなると、私たちが地上で成した悪事は、先祖に筒抜けなわけですから、オイソレと、おかしなことはできませんよね。
これが、「恥」の感覚です。
反対に、
「先祖のことなんてどうでもいい。私は、私のしたいようにやる」
と言って、道徳に反することを、平然とやってのけてしまうのは、
「恥知らず」
ってことになります。
アカ族のこの辺の感覚は、日本人にも通じるところがあります。
こうした「内発的な規律」は、宗教心が薄れてしまっている現代において、より一層重要になります。
たとえ特定の宗教を信仰していなくても、恥の感覚がしっかりと確立されていえば、
その人は十分、道義にのっとった生き方が可能だからです。
しかし、宗教心も持たず、その上、恥の感覚もない…ってことになると、
歯止めがきかず、欲の赴くままに生きているだけになってしまいます。
それでは、動物と変わりません。
特に、近年のタイでは、道徳心よりもお金のほうが上に来てしまっているようなところがあり、
そのため、道徳に反するようなことであっても、「お金が手に入るのなら構わない」という考えが浸透しています。
そのため、タイ人の後輩格に当たるアカ族も、こうした「金銭至上主義」的な発想をする人が増えて来ています。
モラルの崩壊が著しい現代のタイランドにあって、一定のモラルを維持するのは、容易ではありません。
すでに若者の宗教離れは、タイでも年々深刻化しています。
現に、仏教国であるはずのタイでも、
「若者がお寺に来てくれない!」と、悩む寺が増えています。
こうした時代にあって、日本人やアカ族が代々継承してきた「恥」の感覚は、モラルの維持に不可欠です。
子供たちには、どんな宗教的な訓話よりも、「恥ずかしいことはするな」というその一点を、優先して教えていきたいものです。